『CHAIN CUTTER』 シナリオ(第二場〜)

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第二幕

東京地方裁判所の第二法廷では、裁判官3名と裁判員6名が見守る中、検察官・石川和馬(38)による、証人・三崎優香(26)の主尋問が行われていた。

優香は被告人・保坂恵美理(24)の同僚ダンサーであり、幼なじみでもあった。
優香は事件当日、恵美理から店のショーが終わったあと、相談したいことがあるから時間を取ってほしいといわれていたのだが、いつまで経っても楽屋に戻ってこない恵美理を心配し、ほかのダンサーに聞いてみた。するとショーが終わったあと、舞台袖で被害者・保坂喜美江(クラブ『WHITE DREAM』社長)が、恵美理をひどく叱りつけているのを見たというのだ。その後舞台裏に向かった喜美江を、恵美理が追いかけていったという。
それを聞いた優香は、2人っきりにするのはまずいと思い、慌てて舞台裏に向かったというのだ。
そこで和馬は、「なぜまずいと思ったんですか? 被告人と被害者は親子関係にあります。母親が娘を叱るというのは、一般的によくあることです。まずいと思って駆けつけることじゃないと思うんですが」と質問する。
「社長と恵美理は、普通の親子関係といってしまうには、ちょっと問題がありましたから」

保坂喜美江は、恵美理を生んですぐに夫が女を作って出て行ってしまったことが原因で、人に捨てられるということにひどく敏感になっていた。そのため、恵美理が幼いころからずっと、決して恵美理が自分を裏切らないよう、彼女を自分の監視下に置いていたのだ。
恵美理が自分で決めたことはどんな些細なことにも反対し、将来は看護師になりたいという希望も頑として受け入れなかった。
仕方なく恵美理は、奨学金で看護学校に行き、資格だけは取ったものの、その後は母親がオーナーをしているクラブでダンサーとして働いていた。
事件当時、恵美理には付き合っている男性がいたのだが、当然そんな交際を母親が認めるはずもなく、喜美江は、恵美理がその男と別れないのなら、恵美理を殺して自分も死ぬと公言していた。
「だから私は、2人っきりにするのはまずいと思って、急いで舞台裏に行ったんです。そこで2人の言い争う声が聞こえ、私は階段の上から声のする方を覗きました。社長は手にネックレスを持っていて、その手を恵美理がつかんでいたんです」
「その時ですか、あなたを見つけた被害者が、『優香ちゃん助けて! 私この子に殺される!』といったのは」
「はい。私は驚いて、急いで階段を下りて2人のところに行きました。そのとき恵美理が、社長の腰を後ろから押して、階段から突き落とすのを見てしまったんです」
優香の証言は具体的であり、被告人・保坂恵美理の有罪は決定的であるかに見えた。

第三幕

東京地方裁判所、第一評議室では、第一回目の評決が行われていた。
有罪に手を上げたのは、裁判長・中谷悟、裁判官・藤井俊哉、裁判員1号・三田健一、2号・須藤真澄の4名。
無罪に手を上げたのは、裁判官・河合千秋、裁判員3号・加藤美樹子、5号・太田麻衣子、6号・岡本勇次の4名。
残りは「よくわからないんっすよねぇ、オレ。あんなに可愛い子が実の親を殺すなんてありえないって思うんすけど、証人の人もなかなかキレイだったでしょ? だから本当はどっちなのかなぁって、オレ迷っちゃって」という裁判員4号・林葉亮太。

健一と真澄の意見はほぼ同じであり、証人が犯行現場を見ていた点、被告は被害者から、男との交際を反対されていた点、そして被害者は被告に殺されるといい、実際に殺されたことなどをあげ、被告は有罪であると考えていた。
さらに真澄は、この犯行が計画的だったという証拠として、犯行現場に落ちていたカッターナイフをあげた。事件当時、被告はダンス用の衣装をつけていた。カッターナイフは小さなものだったが、ダンスを踊るのにカッターは必要ない。つまり最初は、カッターで殺そうと考えていたのではないかと推理する。
それに対し、無罪側の3号・加藤美樹子には引っかかる点があった。しかしそれが何かわからない。審理を見ていて、「あれ?」と思ったことがあったらしいのだが、さっぱり思い出せないというのだ。

そんな中、亮太が素朴な疑問を口にする。
「最初から計画的だったんなら、何でこんな小さなカッターだったんすかね。もっと簡単に殺せそうなものっていっぱいあるでしょ? 包丁とか、でっかいナイフとか」
「くだらない。早くしてくれよ」とブツブツ文句をいう健一を尻目に、悟が答える。
「隠蔽工作をしやすくしたってことでしょう。カッターなら後始末が簡単ですから。今回の裁判では、被告に殺意があったかどうかが重要な争点となります。ですから、計画的にカッターを持っていたというのは、殺意があったと考えるに足る、とても重大な証拠となるのです!」

第四幕

東京地方裁判所、第二法廷では、弁護人・島本由美子による、被告人・保坂恵美理の主尋問が行われていた。

「先ほど証人の三崎さんは、保坂喜美江がずっとあなたを自分の管理下に置こうとしていたと証言していましたが、それはあなたにとってイヤなことではなかったんですか?」という由美子の質問に、イヤという意味自体がわからない様子の恵美理。
それは恵美理が、母親の言うことは全てが正しいと思っていたからだった。

物心がつき始めたときからずっと、恵美理は「お前はダメな人間だ。何をやっても役に立たない」といわれ続けて育ってきた。そのことについて、由美子に「被害者を恨んでいたか?」と質問された時も、キョトンとするばかりの恵美理。
看護師にならなかったことも、「きっと患者さんや周りの人たちに迷惑をかけるから」という母の言葉をそのまま信じ、「母は大変なことになる前に止めろっていってくれたんです」と証言した。

「あなたは当時、海外転勤が決まった彼に、結婚して一緒についてきてほしいといわれていた。しかしそのことを被害者に打ち明けたところ猛反対され、舞台袖で口論となった。その後階段踊り場に移動したのはなぜですか?」との由美子の質問に、恵美理は「私がそのとき着けていた、彼からもらったネックレスを、母が無理矢理引っ張ってはずしてしまったんです。踊り場で母に追いついた私は、ネックレスを取り戻そうとしました」と答える。

「保坂さん。あなたはさっき、母親を恨んではいなかったといいましたね。では、恨んではいない母親を、殺そうと思ったことはありますか?」
「ありません! 殺そうだなんて、思うはずがありません!」
「では保坂さん、あなたはただ、母親が引きちぎった大事なネックレスを取り戻そうと思った、ただそれだけなんですね?」
「そうです! 私は母を殺そうと思ったことは、一度もありません!」
恵美理はキッパリと断言した。

第五幕

東京地方裁判所、第一評議室。
一時評議が中断され、15分間の休憩に入っていた。
裁判員5号の麻衣子は、先ほどの評議を聞き、徐々に有罪ではないかと考えるようになっていた。その意見に同調する4号・亮太。
「だったら次の評決で有罪にあげればいいんじゃない?」と微笑む真澄。

状況から考えると、証拠類は全て有罪を指し示しているように見える。しかし美樹子は、被告が被害者を追いかけて舞台裏に向かったことに疑問を感じていた。計画的だったのなら、どうして偶然向かった場所で殺したのだろうかと。
勇次も『合理的な疑い』、つまりは『疑わしきは罰せず』という司法の基本的精神で、有罪と言い切れる確証が持てずにいた。

そんな中、有罪って気がしてきたといっていた麻衣子が、「私はどんな有力な証拠が出てこようとも、有罪には入れないんです!」と断言する。
それというのも、1号・三田健一の女性蔑視発言に我慢ができず、あのオヤジが有罪なら、自分は無罪に入れて困らせてやるんだなどといい始める。
一同が呆れかえる中、休憩は終わり、評議が再開される。
今度は無罪側の意見を聞くことになった。
6号・岡本勇次は、被害者が事件当時着ていたカーディガンの、すそについている房の一部(房部分の毛糸くず)が、被告のつけていた、何の飾りもないシンプルな指輪に絡んでいた点が引っかかると発言。
しかし真澄は「その毛糸くずが、被告が被害者を突き落とした何よりの証拠じゃないですか。カーディガンのすそを触らない限り、指輪に毛糸は残らないんですから」と反対意見を述べた。
一応全員の意見を聞いたところで、二度目の評決が行われる。

第六幕

東京地方裁判所、第二法廷では、弁護人・島本由美子による、証人への反対尋問が行われていたが、ひどく目が乾くので目薬を差したいという優香の希望で、一時質問が中断していた。

反対尋問が再開すると、由美子は「被告人の将来の夢は、看護師になることでしたね」と切り出した。「そしてあなたの夢は、世界的なダンサーになること、そうでしたね」
一見事件とは何の関係もないように思われる質問に、戸惑いを隠しきれない優香。
しかし由美子は、戸惑う優香をよそに、彼女がニューヨークに一年間ダンス留学をしていたこと、しかし夢破れて日本に戻ってきたこと、今踊っている『WHITE DREAM』のステージは、とても『世界的』とはいえないこと、しかも彼女はそこのナンバー1ダンサーでもないことなどをあげ、優香を質問攻めにしていた。
自分の知られたくない過去を次々に暴露され、憤懣やるかたない優香。
しかし由美子は質問の手を緩めようとはしない。
「被告が『WHITE DREAM』に入るまでは、あなたがナンバー1だったんですよね。被告は、ダンサーになりたいなどと一度として思ったことはないのに、仕方なくダンサーになったその直後、あっという間にあなたを追い抜き、ナンバー1になってしまった。そうでしたね」と、優香の怒りをあおっていった。
「あなたがナンバー1に返り咲くには、被告がやってもいない殺人を、あなたがやったとひと言言えばいいんです。実に簡単ですよね」
「異議あり!」と検察官が言った。「これは全て弁護人の憶測であり、なんら証拠となるものではありません!」
「異議を認めます。弁護人は憶測で話をしないように」
「・・・申し訳ありません、裁判長」
そのやり取りの中、優香の憤りと興奮は頂点に達していた。
「私は確かに見ました! 恵美理が社長の背中を階段の上から押してたんです! 私は嘘を言ったりしていません!」と裁判官や裁判員に向かって叫ぶ優香。
制止しようとする由美子の言葉も耳に入らない優香は「恵美理が突き落としたんです! きっと小さいころに社長から受けた虐待のせいなのよ! いつも恵美理の身体にはたくさんのアザがあったもの!」
その証言に驚く裁判員一同。しかし一番驚いたのは由美子だったのかもしれない。その事実を知らないということではもちろんない。ただそれは、裁判員たちには一番聞かせたくないことだった。そう・・・由美子はやりすぎてしまったのだ! 必死で優香の発言を止めようとする由美子だったが、興奮が収まらず、全く聞き入れる様子のない優香。
「恵美理に聞いても転んだだけだといっていました。でも絶対にあれは、暴力を受けたときにできるアザです! うちの両親もそうじゃないかといってました! きっと恵美理は、そのことでずっと社長を恨んでいたんです!」
由美子はうなだれ、「・・・わかりました。以上です、裁判長」と反対尋問を終える。

第七幕

東京地方裁判所、第一評議室では、第二回目の評決が行われていた。
有罪に手を上げたのは、裁判長・中谷悟、裁判官・藤井俊哉、裁判員1号・三田健一、2号・須藤真澄、4号・林葉亮太の5名。
無罪に手を上げたのは、裁判官・河合千秋、裁判員3号・加藤美樹子、5号・太田麻衣子、6号・岡本勇次の4名。

美樹子には審理中から引っかかっていたことがあった。しかしそれが何なのかがわからず、ずっと頭を悩ませていたのだが、悟の「殺人のきっかけは、当時付き合っていた男性からもらったネックレスを引きちぎられたこと」との発言でひらめくものがあった。
それは証人・三崎優香が、検察官から証拠のネックレスを見せられた時に起こった。
そのとき優香と検察官の距離は、たった1メートルほどしか離れていなかったにもかかわらず、優香は目を細めてネックレスを確認したのだ。そして弁護人との反対尋問中に目薬を差していたことも思い出す。
あ! と思わず大きな声をあげ、自分の考えをまくし立てる美樹子。

証人・三崎優香は目が悪い。
裁判の証人になるという特殊な状況におかれた時、目の悪い人なら、当然メガネをかけるかコンタクトをするはず。しかし彼女はメガネをかけていなかった。
ネックレスの確認のために目を細めたということは、すなわちコンタクトもしていない。
ということは、証人は日常的にメガネをかける習慣がなく、コンタクトも入れない人、というより、目薬を差していたことを考えると、コンタクトを入れられない人なのではないか。つまり彼女は、極度の『ドライアイ』なのだと結論付ける。

コンタクトというのは目の中の水分の上に浮かんでいる。ドライアイがひどくなると水分がなさ過ぎてそれができない。コンタクトを入れても風が吹くだけでレンズが剥がれ落ちたり、水分不足のために角膜を傷つけてしまうこともある。
そして事件当日も、当然コンタクトを入れてなかったし、メガネもかけていなかったと思われる。つまり証人のいう「殺人現場を見た」という証言は、その内容をそのまま信じていいものなのか疑問が残る。

全員が自らの考えに沈み、沈黙が評議室に漂う中、もう一度評決を取り直そうということになる。
第三回目の評決の結果、有罪は健一と真澄の2名となった。
反対に無罪に手を上げたのは、美樹子、亮太、麻衣子、勇次、悟、俊也、千秋の7名。

圧倒的に無罪が多くなる中、真澄は「証人は嘘をついていないと思う。嘘をついていない限り、彼女の言ったことは信用できる」と発言する。
事件があったとき、証人は被告と被害者が立っていたのと同じ場所で2人を見ている。
その距離はたったの2メートル40センチ。人が人を突き落とすなどという大きな動きを、たった2メートル40センチしか離れていない人間が見間違うだろうか。本当に小さなネックレス1つと、人間2人分の大きさの違いを考えても、この2つを同じ土俵で考えていいものかどうか、自分にはとても疑問だ。それに、被告が被害者を突き落としてないとすると、なぜ被告の指輪に、被害者が着ていたカーディガンの毛糸くずがついていたのか。これは、被告が被害者の腰に触れたという動かぬ証拠ではないか。

無罪に手を上げた7名の考えが、また有罪に傾きだす。
そんな中、美樹子の意見、真澄の意見を聞いた勇次に、ある考えが浮ぶ。
「人を背中から押したくらいで、なんの飾りもないシンプルな指輪に毛糸が引っかかるものでしょうか。うちの奥さんが、いろんな石の付いた指輪はキレイだけど、ストッキングが引っかかってしょうがないと言っていました。だから彼女は、ストッキングをはいたあとに指輪を付けるようになった。でも結婚指輪はつけたままだ。それは、シンプルな作りのものは引っ掛かりがないからだと思うんです」
「でも被告の指輪には、確かに毛糸くずが引っかかっていたじゃないか」と反論する健一に、勇次は「そのとおりです。でもそれは、被告が被害者の背中を押したからじゃない。被害者を助けようとしたからなんです」と驚くようなことをいう。

勇次は亮太に手伝ってもらい、そのときの状況を再現する。
「2人がもみ合った結果、被害者が踊り場でバランスを崩し、階段から落ちそうになった。慌てた被告がそれを助けようと、咄嗟にカーディガンの腰の部分、すなわち毛糸の房を掴んだ。しかし被害者は階段から落ちてしまい、被告がつかんだ房だけが、カーディガンからとれて指輪にもはさまった。それを見ていた証人は、メガネやコンタクトをしていなかったため、被告が突き落としたと勘違いした」
一度は有罪に傾いた流れが、また無罪へと傾きだした。

評議は混沌とし、長丁場になりそうな気配が評議室に流れると、イライラが頂点に達した健一が、突然机を叩いて立ち上がる。
「俺は急いでるんだよ! さっきから何度もそう言ってるだろ! 被告は被害者を突き落とした。それを証人が見ていた。だから有罪。もうこれでいいだろう」
勇次が何を言っても、千秋が投げやりな態度は止めてくださいと注意しても、激昂する健一に聞く耳はない。ついに健一は、「どうしても無罪になるまでは議論を止めないなら、俺も無罪に入れる。これからいいだろう」などといい始め、唯一の有罪である真澄に、「無罪に入れてくれたら礼をする。頼む」と頭を下げた。
あまりの事態に、俊哉は「今の発言は、裁判員刑事裁判法、第七十七条、裁判員に対する請託罪等の罪で、2年以下の懲役、又は20万円以下の罰金ですよ!」と警告をするが、健一は「だったら俺にどうしろって言うんだよ! なにをすればここから開放してくれる。その方法を教えろよ!」と怒鳴るばかりだった。

「あ〜あ、見苦しいったらありゃしない」と麻衣子がいった。
女性蔑視の発言ばかりを繰り返す健一を、腹に据えかねる思いで見ていた麻衣子は、「早く帰って奥さん迎えに行くつもりだろうけど、無駄じゃないんですか? そっとしておいてあげたほうがいいと思いますよ。だってあなたと一緒にいても奥さん辛いだけだと思うから」とずけずけと言った。

もう、議論をしているのかケンカをしているのかもわからなくなった評議室に、呆れかえり、途方くれたようなため息が漏れる。

「・・・仕方ないだろう・・・」と健一がつぶやいた。
実は5年前、健一は6歳になったばかりの息子を交通事故で亡くしていた。
妻と買い物に出た息子は、妻がちょっと目を離したすきに、転がっていったサッカーボールを追いかけて道路に飛び出してしまったのだ。
妻は自らを責め続けた。私のせいだと泣き、何度も何度も健一に謝った。しかし健一は許さなかった。許してたまるかと思っていた。
「あいつがあの子を殺したんだ。あいつがもっとちゃんと見ていれば、あの子が死ぬことなんてなかったんだ。あの子はあいつに殺された。俺がもしそのことを忘れてあいつを許してしまったら、あの子の生きたたった6年間が、全て無駄になってしまうんだぞ!」

「バカじゃないの?」
麻衣子だった。「あんたはバカだって言ってんの。許すってどういうこと? 子供の命はあんたのものじゃないでしょ。奥さんを許すかどうかはその子が決めることで、あんたが決めることじゃないのよ」
「子供を持ったことがないお前なんかに、俺の気持ちがわかるわけがない!」
憎々しげに麻衣子を睨みつける健一に、「あんたって本当に、うちの父親そっくりね」と吐き捨てるように麻衣子が言った。

麻衣子の母親は、麻衣子を生むために死んでいたのだ。最初から出産は無理だといわれていたのだが、母親はそれを押し切って麻衣子を生んだ。しかし父親はそれに耐えられなかった。
「父は、母を殺したのは私だと思ってる」
小さいころ、どうして父親が自分に辛く当たるのかわからなかった麻衣子は、父に愛してほしくて、褒めてほしくて必死に努力をした。しかしどんな努力も、決して父親に通じることはなかった。
「中学生になって、初めて祖母から事情を聞かされたの。そのとき、ああそうかって、わかった。私は、存在自体を拒絶されてたんだって。どんなに愛してほしくても、どんなに褒めてほしくても、決して父に届くことはないんだって」
いつの間にか麻衣子は、自分の父親と健一を重ねていた。
「奥さんを許したら子供の一生はすべて無駄になるの? じゃあ父が私を許したら、母の一緒は無駄になるっていうの? 私は母の一生を無駄にしないために、生まれてこなければよかったの? あんたの死んでしまった子供の代わりに、奥さんが死ねばよかったとでもいうの?!」

健一は、子供を亡くした辛さを妻にぶつけることで、耐え難い悲しみに耐えていたのだ。
「俺は・・・怖かったんだ・・・。あいつを許してしまえば、あの子がもうこの世にいないことを認めてしまう。そんなこと、とても耐えられそうもなかったんだ・・・」
健一は、自分のしてきたあまりに理不尽な思いに気づき、激しい後悔の涙を流した。

第八幕

東京地方裁判所、第二法廷では、検察官・石川和馬による、被告人への反対尋問が行われていた。

自分が受けていたのは虐待ではなく、躾の一環だったと主張する恵美理。
「母は私が悪いことをしたから叩いただけで、決して暴力を振るっていたわけではありません。看護師になるのを反対したのも、私がダメな人間だったからです」
「それはおかしくないですか? だってあなたは、看護学校で常に上位の成績を取っていましたね。本当にダメな人間だったのなら、看護学校はあなたのどこを見て上位の成績をつけていたんでしょうか。聡明はあなたにはちゃんとわかっていたはずです。母親から受けているのは躾でもなんでもなく、ただの虐待なんだということが。しかしそれを表立って母親にわからせるのは得策じゃない。頭のいいあなたは、そのことも十分理解していた。だからそれを常に心のうちにしまっていることで、これ以上事態を悪化させることを避けたんです。その証拠が、あなたの手首にあるリストカットの痕ですよね」
ハッと息を呑む恵美理。そしてそれを聞く裁判員たちの中に、自分の手首をそっと握る者がいた。・・・真澄だった。

和馬は攻撃の手を緩めようとはしなかった。
「あなたは本来母親に行くはずだった怒りを自分に向けた。あなたにとって母親は、自分のやりたいこと、将来の夢、そして大切な恋人を奪っていく存在でしかなかった。憎かった、殺してやりたかった、そうですよね!」
「違います! 信じてください!」と恵美理は叫んだ。「私は母を・・・ママを愛していました! 愛してたんです! ママが満足してくれるなら、看護師だろうとダンサーだろうとどうでもよかった。ママさえ私を必要としてくれるなら、私はそれで満足だったんです!」
その叫びは、とても嘘を言っているようには見えなかった。

第九場

東京地方裁判所、第一評議室では、第四回目の評決が行われていた。
有罪に手を上げたのは、2号・須藤真澄ただ一人となった。

カッターが現場に落ちていたということは、殺意の証明になる。裁判長である悟もさっきそういっていた。殺意のある人間が、被害者を助けようとしたとは到底思えないと主張する真澄。

「あのカッターは、殺意の証明ではないんです」と勇次が言った。
被告はリストカットをしていた。カッターはそのためのものだったのではないかというのだ。その意見に真澄は「リストカット用だったなら、カッターは自分の部屋の引き出しか、洗面所に置くでしょ? これからダンスを踊るって時に、なぜカッターを持つんですか? 殺害目的だから持っていた。その方がずっと筋が通っていると思います」と反論する。
「あれはお守りだったんじゃないでしょうか」と勇次。
なぜならリストカットは、死ぬためではなく生きるためにするもの。被告にとってのカッターは、母親から、そして崩れそうになる精神を支えてくれるもの。これさえあれば生きている実感が湧く、たったひとつのお守りだったのではないか。だからいつも持ち歩いていたのだと主張する。
それを聞いた真澄は、「何がお守りよ、バカバカしい! カウンセラーだかなんだか知らないけど、わかったような顔していい加減なこと言わないでよ!」と吐き捨てた。
真澄の突然の豹変振りに、驚きを隠しきれない一同。
「殺したとか殺してないとかの問題じゃない。彼女は母親を裏切って男を取ろうとしたの。それだけで十分罪なのよ。だから彼女は罪を償うべきなの!」
目を吊り上げて怒鳴り散らす真澄に、勇次は静かに言った。
「あなたもリストカットされてますね」
勇次は裁判中、真澄がリストカットという言葉に反応し、思わず自分の手首を握ったところを見ていた。そしてカッターの置き場所を、「自分の部屋の引き出しか、洗面所に置くでしょ?」と、とてもリアルに表現したことも聞き逃さなかった。
「それに須藤さんは、虐待という言葉にとても強い反応をしています」
「止めて・・・」と思わずつぶやく真澄。

真澄もまた、幼いころからずっと、母親からの虐待に耐えてきていた。そして今は、それを自分の娘に繰り返していたのだった。
「子供は母親の言うとおりに生きていくものなの! 好きな人ができても、したいことがあっても、母の答えがノーなら、それはしてはいけないことなのよ。彼女は母親の言うとおりにしなかった。なのにどうして許されるの? そんなのずるい。そんなの不公平よ。私は絶対に許さない!」
「今まであなたがどんな辛い人生を送ってきたかなんて、そんなことどうでもいいんだ!」と勇次が言った。
「ここはあなたの人生を正当化する場所じゃないんですよ! 被告のこれからを決める場所なんだ! あなたは裁判員としてここにいるんだ。選ばれてしまったんですよ! 殺したとか殺してないとか問題じゃないなんて、決して言ってはいけないし、そんな心のままで評議に参加すべきじゃないんです!」

「あなたは今、幸せですか?」と、勇次は静かに尋ねた。
母親から受けた心の傷を自分の娘に繋げる、あなたはそんなことを永遠に続けるつもりなのか。あなたがずるいと思ったり、不公平だと感じる心を、そのまま子供に背負わせて、そうやって生きていくことが幸せなんだって、あなたは胸を張って子供にいえるんですか?

勇次をジッと見つめる真澄の目に涙が浮かんだ。
「私・・・母に愛してほしかったの・・・。ただニコッと笑ってほしかった。ただそれだけでよかったの。・・・あの子は今、幸せなのかな。幸せなわけないよね。だって私、全然笑ってあげてないもの。・・・私、あの子を愛している。・・・本当は、愛してるの・・・」
「わかってますよ」
勇次は真澄に優しく語り掛ける。
「須藤さん、繋げちゃいけない鎖は断ち切るべきなんです。それがあなたにとってどれほど大変なことだとしても、繋がれたまま生きていくよりましなんですよ」

第十場

暗闇の中で、「それではこれより、5回目の評決を取りたいと思います」との声が聞こえると、突然の大音響の音楽と共に、華やかなライトがステージいっぱいに照らされ、恵美理を抜いた『WHITE DREAM』のダンサーたちが、優香を中心に踊り始める。
華麗なダンスの途中でステージの照明が暗くなり、2階に明かりが入る。
そこには、裁判官3名と裁判員6名が並んでいた。
「有罪はゼロですね? それでは、無罪と思われる方、挙手をお願いいたします」との声に、センターに立つ真澄以外の全員が手を上げ、その後ゆっくりと真澄の手も上がる。
真澄の手が上がると同時にステージに明かりが戻り、センターから恵美理が登場する。
それは、恵美理が無罪を勝ち取った瞬間だった。
『WHITE DREAM』のダンサーたちは、再び恵美理を中心に踊り始める。

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連載モノ

連載小説
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日記
夢野さくらのブログ。
日常生活が覗けちゃう・・・かも
稽古場日誌
この公演はいかにして創られたのか!
稽古風景をちょっとだけ紹介しちゃいます。
 All written by: 夢野さくら